大河『豊臣兄弟!』で石田三成を演じている俳優の松本怜生さん。お父さんがどんな人なのか、気になっている人も多いのではないでしょうか。
この記事では、松本怜生さんのお父さんについて、本人がインタビューで話したことをまとめました。家族構成や実家の場所、野球を始めたきっかけになったお父さんのバットの話も紹介します。
さらに、俳優の道に大反対したお父さんが一番の応援者になるまでと、石田三成役の予言も取り上げます。世間の声まで、ぜひ最後までチェックしてみてください。
Contents
- 1 松本怜生の父親はどんな人?野球を始めたきっかけのバットと夜勤明けの応援
- 2 松本怜生の父親は俳優の道に反対した?大反対から一番の応援者になるまで
松本怜生の父親はどんな人?野球を始めたきっかけのバットと夜勤明けの応援
- 家族構成は?父と母と3つ上の姉の4人家族で実家は愛媛県西条市
- 父親の職業は?夜勤の仕事をしていたが名前や職業は公表されていない
- 野球を始めたきっかけは?小さいころ父が買ってくれたバット
- 少年時代の応援は?親がコーチのクラブで両親が支えてくれた
- けがをしたときは?甲子園の夢を届けられず入院中に両親がDVDを用意
家族構成は?父と母と3つ上の姉の4人家族で実家は愛媛県西条市
松本怜生さんは、どんな家族のもとで育ったのでしょうか。お父さんのことを知る前に、まずは家族構成や実家の場所が気になりますよね。
松本怜生さんの家族は、お父さん、お母さん、3つ上のお姉さんとの4人家族です。実家は愛媛県西条市にあり、24年間のうち18年を西条で過ごしたと話しています。
父と母と姉の4人家族
2026年4月6日に公開された東京すくすくのインタビューで、松本怜生さんは、父と母、姉の4人家族で、愛媛の田舎で生まれ育ったと話しています。この記事は東京新聞の2026年4月5日の朝刊に載ったもので、著名人が家族との思い出を語るコーナーです。
記事のタイトルにもなっているのが、大河『豊臣兄弟!』の石田三成役について、お父さんが、受かるなら三成しかない、と言い切っていたという話です。お父さんとのエピソードがたくさん語られている記事なので、この記事ではくわしく紹介していきますね。
実家は愛媛県西条市
所属事務所MR8の公式プロフィールでは、出身地は愛媛県と紹介されています。2025年4月号の広報さいじょうでは、西条市出身の俳優として、松本怜生さんのインタビューが特集されていました。広報さいじょうは、愛媛県西条市の広報誌です。
このインタビューで松本怜生さんは、24年間のうち18年を過ごした西条は、自分にとって特別な場所だと話しています。初めての写真集の撮影も、育った西条を選んだそうです。実家がある西条は、胸を張ってふるさとと言える場所で、どれだけ忙しくても落ち着ける唯一の場所だと語っていました。
専業主婦の母と3つ上の姉
2025年4月15日のU-NEXT SQUAREのインタビューでは、お母さんが専業主婦だったと話しています。大学進学と同時に実家を出て、ひとり暮らしを始めたそうです。ひとり暮らしで一番驚いた家事はゴミ出しだったと笑っていました。
東京すくすくのインタビューでは、3つ上のお姉さんは自分にとって大切な存在だと話しています。お姉さんの応援については、このあとの見出しで紹介しますね。お父さん、お母さん、お姉さんの名前や年齢は、一般の方なので公表されていません。
父親の職業は?夜勤の仕事をしていたが名前や職業は公表されていない
松本怜生さんのお父さんは、どんな仕事をしている人なのでしょうか。名前や年齢がわかるのかも、気になりますよね。
お父さんの名前や年齢、職業は公表されていません。ただ、松本怜生さんが小学生のころ、お父さんは夜勤の仕事を終えて、そのまま野球の試合に来てくれることもあったそうです。
夜勤の仕事を終えて試合へ
東京すくすくのインタビューによると、松本怜生さんが小学生のころに入っていた野球のクラブは、親がコーチを務めるクラブだったそうです。そのため、お父さんは夜勤の仕事を終えてそのまま試合に来てくれることもあったと話しています。
夜勤のある仕事をしていたことはわかりますが、このインタビューでは、どんな仕事かまではふれていません。仕事を終えて疲れているはずなのに、息子の試合に駆けつけていたというのは、お父さんの人柄が伝わるエピソードですね。当時はありがたさに気づけなかったけれど、両親には感謝の気持ちでいっぱいだと話していました。
名前や年齢は公表されていない
お父さんは一般の方なので、名前や年齢、顔写真などは公表されていません。所属事務所の公式プロフィールにも、家族についての記載はありません。インタビューでは、お父さんのことを父と呼び、エピソードを話しています。
お父さんの言葉として紹介されているのは、野球をやめて俳優を目指すときの反対の言葉や、出演作の感想、石田三成役の予言などです。どれも、息子を思う気持ちが伝わる言葉ばかりです。それぞれの言葉は、このあとの見出しでくわしく紹介しますね。
ネット上で言われていること
ネット上では、お父さんはお酒やタバコが好き、松本怜生さんと一緒にゴルフに行くほど仲がいい、などと言われることもあります。ただ、はっきりした情報は公表されていません。所属事務所のプロフィールでは、ゴルフは松本怜生さん自身の趣味として書かれています。
お父さんの職業についても、さまざまに言われることがありますが、公表されていません。一般の方なので、勤め先や実家の場所を探したりするのは控えたいですね。この記事では、松本怜生さんが自分の言葉で話したお父さんの姿だけを紹介していきます。
野球を始めたきっかけは?小さいころ父が買ってくれたバット
松本怜生さんは、子どものころから高校まで野球を続けていました。野球を始めたきっかけに、お父さんが関わっていたのか気になりますよね。
松本怜生さんが野球を始めたきっかけは、小さいころにお父さんが買ってくれたバットだったそうです。バスケットボール一家でしたが、バットがうれしくて振っているうちに、6歳でリトルリーグに入りました。
バスケットボール一家
2025年4月号の広報さいじょうのインタビューで、松本怜生さんは、家族はバスケットボール一家だったと話しています。2026年4月6日の東京すくすくのインタビューでも、バスケ一家だったと振り返っていました。
バスケットボール一家の中で、松本怜生さんは野球の道に進んだんですね。東京すくすくでは、父がやってほしかったのか、6歳からリトルリーグに入って野球を始めた、と話しています。野球をしてほしいというお父さんの思いがあったのかもしれない、と本人も感じているようです。
父が買ってくれたバット
広報さいじょうのインタビューによると、小さいころにお父さんがバットを買ってくれて、とても喜んで振っていたそうです。それがきっかけでリトルリーグに入り、高校までずっと硬式野球を続けたといいます。
2024年11月30日の女性自身のインタビューでも、バットを買ってもらったのがうれしくて、6歳のころからずっと野球を続けていた、と話していました。お父さんが買ってくれた1本のバットが、松本怜生さんの子ども時代を形づくったということですね。
6歳でリトルリーグへ
松本怜生さんは、6歳でリトルリーグに入り、野球を始めました。2024年10月1日のFAST TOKYOのインタビューでも、6歳から野球をやっていて、甲子園に行くのを目標にがんばっていたと話しています。
所属事務所のプロフィールでも、特技の最初に野球が書かれています。高校は小松高校に進み、野球部で上下関係の厳しさや礼儀を学んだそうです。お父さんのバットから始まった野球は、松本怜生さんにとって、人としての土台にもなっているんですね。
少年時代の応援は?親がコーチのクラブで両親が支えてくれた
野球に打ち込んでいた松本怜生さんを、両親はどんなふうに支えていたのでしょうか。試合を見に来ていたのか、気になりますよね。
松本怜生さんが小学生のころに入っていたのは、親がコーチを務めるクラブでした。お父さんは仕事のあとに試合に駆けつけ、お母さんは泥だらけのユニホームを毎回洗ってくれたそうです。
親がコーチを務めるクラブ
東京すくすくのインタビューによると、小学生のときは、親がコーチを務めるクラブで野球をしていたそうです。前の見出しで紹介したとおり、お父さんは夜勤の仕事を終えて、そのまま試合に来てくれることもあったといいます。
親たちがコーチを務めて、子どもたちの野球を支えるクラブだったんですね。お父さん自身がコーチをしていたのかどうかまでは、このインタビューではふれていません。それでも、仕事のあとに試合を見に来てくれるお父さんの姿は、松本怜生さんの心にずっと残っているようです。
泥だらけのユニホームを洗った母
東京すくすくのインタビューでは、お母さんは洗い物で手が切れてしまうくらい肌が弱いのに、泥だらけのユニホームを毎回洗ってくれたと話しています。野球を続けるには、家族の支えが欠かせなかったんですね。
当時はありがたさに気づけなかったけれど、両親には感謝の気持ちでいっぱいだそうです。お父さんは試合に駆けつけ、お母さんはユニホームを洗い、両親がそれぞれのやり方で野球を応援してくれていたことが伝わってきます。
13年間続けた野球
2025年7月1日のウォーカープラスのインタビューで、松本怜生さんは、小学生のころから13年間、野球をやっていたと話しています。野球をしていた18歳までは、ずっと坊主頭だったそうです。
広報さいじょうのインタビューでは、仕事で大切にしていることとして、あいさつや、目を見て話すこと、思いやりを持って行動することを挙げ、高校時代の監督から教わった大切なことだと話していました。FAST TOKYOのインタビューでも、どんな人にも礼儀正しい人間であることは、野球をやっていて自然に身についた部分だと話していました。両親の応援を受けて続けた野球が、今の仕事にも生きているんですね。
けがをしたときは?甲子園の夢を届けられず入院中に両親がDVDを用意
甲子園を目指していた松本怜生さんは、高校で大きなけがをしています。そのとき、両親はどんなふうに寄り添ってくれたのでしょうか。
松本怜生さんは、高校で2度、膝の靱帯を切る大けがをして、甲子園の夢をあきらめました。両親が楽しみにしていた甲子園の夢を届けられず申し訳なかったそうですが、入院中には、両親が大量のDVDを用意してくれたといいます。
2度の靱帯のけが
2024年10月1日のFAST TOKYOのインタビューによると、松本怜生さんは、高校に入学してから2年間で2回、膝の靱帯を切って手術をすることになったそうです。2回目は甲子園の予選の2か月前で、そこで夢が終わってしまったと話しています。
2025年4月号の広報さいじょうでは、夏の大会の2か月前の練習試合で靱帯を切り、実はその前にも同じところを痛めて、1年間リハビリをして復帰したばかりだったと振り返っていました。2026年4月6日の東京すくすくでは、お母さんも見に来ていた試合でけがをして、病院に向かう車を運転するお母さんが泣いているのを見て、自分も涙が止まらなかったと話しています。
親が楽しみにしていた甲子園
2026年1月10日のViViのインタビューで、松本怜生さんは、親のおかげで野球に打ち込むことができたのに、その親が楽しみにしていた甲子園出場という夢を届けられなかったという申し訳なさでいっぱいだったと話しています。
お母さんは、松本怜生さんの落ち込みようを見て、二度と立ち直れないのではないかと思うほど心配したそうです。だからこそ、ただ働くだけではなく、家族にも夢を届けられる仕事をしたいと思ったといいます。試合に駆けつけてくれたお父さんや、ユニホームを洗ってくれたお母さんへの思いが、次の夢につながったんですね。
両親が用意した大量のDVD
2024年11月30日の女性自身のインタビューによると、入院中に両親が用意してくれたのが、大量のDVDだったそうです。物語の登場人物たちは、いろいろな体験をして輝いていて、ずっと野球しかなかった自分は嫉妬してしまったと話しています。
そのとき、役者になれば、これまでとは違う人生も体験できるのではないかと思ったそうです。10年以上積み上げてきたものが最後に崩れ落ちる挫折を味わったので、このままでは終われないとも思ったといいます。両親が用意してくれたDVDが、俳優を目指すきっかけになったということですね。
松本怜生の父親は俳優の道に反対した?大反対から一番の応援者になるまで
- 俳優になりたいと言えなかった理由は?地元で就職するのが当たり前だった
- 父親は反対した?これまで積み上げてきたものはどうなるんだと大反対
- 背中を押したのは?母が父に2人で見守ってみようよと声をかけた
- 今の父親は?一番の応援者で感想は母を通じて野菜いるか
- 父親の予言とは?受かるなら石田三成役だと断言して的中
- 世間の声は?新人のころから次にくると注目する声
俳優になりたいと言えなかった理由は?地元で就職するのが当たり前だった
入院中に俳優を目指そうと思った松本怜生さんは、その思いをすぐに両親に話したのでしょうか。お父さんにどう伝えたのか、気になりますよね。
松本怜生さんは、俳優になりたいという思いを、すぐには誰にも話しませんでした。地元では、地元で就職して結婚するという人生設計が当たり前で、親を説得する自信がなかったそうです。
地元で就職して結婚する人生設計
FAST TOKYOのインタビューで、松本怜生さんは、実家があるのは田舎のほうなので、地元で就職して結婚するという人生設計が、子どものころからなんとなく決まっていると話しています。高校で野球をしていると、地元の工場などに就職しやすいこともあるそうです。
ViViのインタビューでは、地元は本当に田舎なので、いきなり俳優になりたいと言っても、なれるか、で終わってしまうと話していました。広報さいじょうでも、大学進学のときには、俳優になるとは誰にも言わなかった、普通は地元で就職するという考えが自分の中にもあって口にできなかった、と振り返っています。
勉強したいとうそをついて大阪へ
FAST TOKYOのインタビューによると、いきなり俳優になりたいと言っても親を説得する自信がまったくなかったので、勉強したいからとうそをついて、大阪の大学に行きたいとお願いしたそうです。ViViでも、親をだますような形で、とりあえず大阪の大学に行ったと話していました。
愛媛からいきなり東京に行くのは絶対に無理で、愛媛を出るなら、まずは高知や広島、岡山などに行く感覚だそうです。大阪に行けたらすごいことで、東京に行くなら家族で引っ越すくらいの感覚なんだとか。地元を出ること自体が、大きな決断だったことが伝わってきます。
21歳で上京するまで
大阪の大学に進んだ松本怜生さんは、大学の友だちとの出会いをきっかけにTikTokを始めました。フォロワーが増えたところで、東京で挑戦したいと思い、親に頭を下げたそうです。東京すくすくのインタビューでは、大阪の大学に進学し、俳優を目指して21歳で上京したと話しています。
広報さいじょうのプロフィールでも、高校卒業後は大阪へ進学し、2021年から芸能活動を始めたと紹介されています。俳優の道に進むことを親に打ち明けたとき、お父さんがどんな反応をしたのかは、次の見出しで紹介しますね。
父親は反対した?これまで積み上げてきたものはどうなるんだと大反対
俳優を目指して東京に行きたいと打ち明けたとき、お父さんはどんな反応をしたのでしょうか。すぐに応援してくれたのか、気になりますよね。
お父さんは、俳優になることに大反対でした。これまで積み上げてきたものはどうなるんだ、お前に芝居ができるわけない、と言われたそうです。
積み上げてきたものはどうなる
2026年4月6日の東京すくすくのインタビューで、松本怜生さんは、お父さんから、これまで積み上げてきたものはどうなるんだ、と大反対されたと話しています。小さいころから続けてきた野球のことも、大阪の大学に進んだことも、お父さんはずっと見てきたんですね。
2024年10月1日のFAST TOKYOのインタビューでも、父には反対された、と振り返っています。2026年1月10日のViViでは、俳優人生は、18歳の大けがから、まわりの反対を説き伏せるところから始まっている、と話していました。
お前に芝居ができるわけない
2025年4月号の広報さいじょうのインタビューでは、両親の反応を聞かれて、父には猛反対された、お前に芝居ができるわけない、と言われた、と笑いながら話しています。お父さんらしい、まっすぐな言葉ですね。
松本怜生さんは、学生時代は行事にも積極的に参加するタイプではなかったので、父の言うこともっともだった、と振り返っていました。お父さんの言葉を、もっともだと受け止めていたんですね。それでも、最後は自分の意思で決めたそうです。
父の心配も分かる
東京すくすくのインタビューで、松本怜生さんは、お父さんの言っていることは正しいし、親の立場からすると心配する気持ちも分かる、と話しています。反対されたことを恨むのではなく、お父さんの気持ちを受け止めているんですね。
FAST TOKYOのインタビューでは、高校で野球をしていれば地元の工場などに就職しやすいのに、それも自分から捨てて俳優の道を選んだと話しています。そのうえで、挑戦させてくれた親には本当に感謝している、と語っていました。松本怜生さんは、反対の言葉の中に、自分を心配する親の気持ちを感じ取っていたんですね。
背中を押したのは?母が父に2人で見守ってみようよと声をかけた
大反対したお父さんを前に、松本怜生さんはどうやって東京に行くことができたのでしょうか。家族の中で、応援してくれた人がいたのか気になりますよね。
背中を押してくれたのは、お母さんでした。お母さんは、夢を追う姿を楽しみにするね、と言ってくれて、お父さんには、2人で見守ってみようよ、と声をかけてくれたそうです。お姉さんも応援してくれました。
夢を追う姿を楽しみにする母
東京すくすくのインタビューによると、大反対するお父さんに対して、背中を押してくれたのはお母さんだったそうです。夢を追う姿を楽しみにするね、と言ってくれて、お父さんには、2人で見守ってみようよ、と促してくれたといいます。
広報さいじょうのインタビューでは、お母さんは、やりたいことは全肯定してくれる人で、ただ、筋は通しなさい、と言われたと話しています。応援しながらも、大事なことはきちんと伝えてくれるお母さんだったんですね。お母さんの言葉は、松本怜生さんにとって大きな支えになったんですね。
母と姉が背中を押した
FAST TOKYOのインタビューでは、父には反対されたけれど、母と姉は背中を押してくれた、と話しています。2人があの場にいなかったら、東京へ来られていなかったかもしれない、とも振り返っていました。
東京すくすくでは、3つ上のお姉さんについて、長女としての役割を期待されることもある中で、自由を許されている弟をうらやましいと思ったこともあると思うけれど、それを言われたことはない、と話しています。怜生は怜生だから、といつも応援してくれて、自分は幸せ者だと語っていました。
最後は自分の意思で決めた
広報さいじょうのインタビューで、松本怜生さんは、お父さんに猛反対されたものの、最終的には自分の意思で決めたと話しています。お母さんとお姉さんの応援を受けながら、自分で決めて東京に出てきたということですね。
上京したときは、やってやろう、という気持ちが大きく、不安はなかったそうです。ViViのインタビューでは、デビューまでのほうがつらかったので、今は俳優の仕事ができているだけで何も苦しくない、とも話していました。反対したお父さんがその後どう変わったのかは、次の見出しで紹介しますね。
今の父親は?一番の応援者で感想は母を通じて野菜いるか
俳優になることに大反対したお父さんは、今はどうしているのでしょうか。息子の活躍をどう見ているのか、気になりますよね。
大反対したお父さんも、今では一番応援してくれているそうです。出演作の感想は、お母さんを通じて、すごいやん、頑張っとるな、野菜いるか、と伝えてくるといいます。
今では一番応援してくれる父
2024年10月1日のFAST TOKYOのインタビューで、松本怜生さんは、反対したお父さんも、今では一番応援してくれていると話しています。2025年4月号の広報さいじょうでも、今では父が一番応援してくれている、と語っていました。
2025年7月1日のウォーカープラスのインタビューでは、今の状況は信じられないほどの奇跡で、自分と同じくらい両親も驚いていると思う、と話しています。お前に芝居ができるわけない、と言っていたお父さんが、今では一番の応援者になっているというのは、すてきな変化ですね。
母を通じて届く感想
2026年4月6日の東京すくすくのインタビューによると、お父さんは出演作の感想を、お母さんを通じて伝えてくるそうです。その言葉は、すごいやん、頑張っとるな、野菜いるか、というものなんだとか。
松本怜生さんは、まだ自分からは胸を張って見て、とは言えないけれど、見てくれてありがとう、と思っていると話しています。感想のあとに続く、野菜いるか、のひと言には、なんだかほっこりしますね。
1年ぶりの実家の食卓
2025年12月30日のモデルプレスの記事によると、松本怜生さんは12月29日にInstagramのストーリーズを更新し、1年ぶりの実家飯が泣ける、とつづって、実家の食卓の写真を公開しました。具だくさんの汁物と炊き込みご飯が並んでいたそうです。
この投稿には、家族の愛を感じる、ホッとする献立、などの声が寄せられていました。忙しく働く中でも、年末には実家に帰っていたんですね。2026年1月10日のViViのインタビューでは、自分のアイデンティティは地元の愛媛にあると言っても過言ではない、と話していました。
父親の予言とは?受かるなら石田三成役だと断言して的中
松本怜生さんは、2026年の大河『豊臣兄弟!』で石田三成を演じています。この役にお父さんが関わっていたという話は本当なのでしょうか。
お父さんは、オーディションの前から、受かるとしたら三成しかない、と言い切っていたそうです。帰省したときには、お父さんと一緒にオーディションのせりふを練習していて、その予言どおりに石田三成役に決まりました。
帰省して父とせりふの練習
東京すくすくのインタビューによると、松本怜生さんは帰省したとき、お父さんとオーディションのせりふを練習していたそうです。そのとき、受かるとしたら三成しかない、とお父さんが断言していたといいます。そして、その言葉のとおりになりました。
俳優になることに大反対していたお父さんが、今ではオーディションの練習につき合ってくれるようになったんですね。2025年4月号の広報さいじょうでは、今後の目標を聞かれて、大河に出演することだと答えていました。その目標を、お父さんと一緒にかなえたということですね。
加藤清正が好きなのに三成
2026年5月10日のReal Soundの記事では、松本怜生さんのコメントが紹介されています。武将の中では個人的に加藤清正が好きだけれど、なぜか父からはオーディションの前に、お前が受かるなら石田三成役だ、と言われた、と笑いながら話していました。
三成には、冷静で賢い武将というイメージを持っていたそうです。そのうえで、ずっと硬派なだけではなく、緩急のある人物にできたらいい、と話していました。所属事務所の公式プロフィールにも、2026年の大河『豊臣兄弟!』の石田三成役が書かれています。
言うた通りじゃろうが
東京すくすくのインタビューによると、出演の情報が解禁になったとき、松本怜生さんは両親に電話で報告したそうです。電話の向こうから、えーっ、というお母さんの高い声が聞こえてきて、お父さんは、言うた通りじゃろうが、と言ったといいます。
出演が決まったときはびっくりしたけれど、大河に出る目標を口にしていたので、夢がかなってうれしかったと話しています。三成のように妥協せずに、まっすぐ突き詰めて、同じ熱量で演じていきたい、と語っていました。お父さんの予言は、松本怜生さんにとって忘れられない思い出になったんですね。
世間の声は?新人のころから次にくると注目する声
松本怜生さんについて、世間ではどんな声が上がっているのでしょうか。ここでは、Yahoo!知恵袋に寄せられた質問を3つ紹介します。
デビューして間もないころから、似た新人俳優を知りたい、CMに出ている2人は誰か、といった質問が寄せられていました。
似た新人俳優をたずねる質問
2022年3月28日には、松本怜生さんのような新人俳優を教えてほしい、という質問が投稿されています。閲覧数は155回で、回答は1件です。
回答では、坂東龍汰さん、藤原大祐さん、高橋文哉さんなどの名前が挙げられ、系統は違うかもしれない、と答えられていました。2022年は、ドラマ『パパとムスメの7日間』で初めて連続ドラマにレギュラー出演した年です。デビューした年から、松本怜生さんのような俳優を探す人がいたんですね。
CMの男子2人をたずねる質問
2023年6月2日には、最近よく見かけるCMの男子2人は、アイドルや舞台俳優なのか、という質問が投稿されています。閲覧数は496回で、回答は1件です。
ベストアンサーでは、所属事務所MR8の売り出し中の俳優2人で、ドラマや舞台で今売れてきている2人だと答えられていました。名前が挙げられていたのは、曽田陵介さんと松本怜生さんです。CMを見て気になった人が、名前を調べていたことがわかります。
出演者が有名人かをたずねる質問
2024年9月1日には、ドラマ『降り積もれ孤独な死よ』に出演している松本怜生さんたちは有名人なのか、という質問が投稿されています。閲覧数は289回で、回答は4件です。
回答では、出ていても目立つタイプではないので気づかなかった、という声のほかに、ちょこちょこ見かけるけれどメインは張っていない印象で、次にくる感じがする、という声もありました。この質問の1か月後、2024年9月30日からは朝ドラ『おむすび』の放送が始まり、松本怜生さんも出演しました。世間の声を見ると、デビューのころから少しずつ注目され、次にくる俳優と期待されていたことがわかります。その後は大河にも出演し、お父さんが一番の応援者になっているんですね。
松本怜生の父親のまとめ
- 松本怜生の家族は、父と母、3つ上の姉の4人家族である
- 実家は愛媛県西条市にあり、24年間のうち18年を西条で過ごした
- 父親の名前や年齢、職業は公表されていない
- 小学生のころ、父は夜勤の仕事を終えてそのまま野球の試合に来てくれることもあった
- バスケットボール一家だったが、小さいころに父が買ってくれたバットがきっかけで6歳からリトルリーグに入った
- 小学生のころは親がコーチを務めるクラブで野球をし、母は泥だらけのユニホームを毎回洗ってくれた
- 高校で2度膝の靱帯を切り、親が楽しみにしていた甲子園の夢を届けられなかった
- 入院中に両親が用意してくれた大量のDVDが、俳優を目指すきっかけになった
- 地元で就職するのが当たり前の環境で親を説得する自信がなく、勉強したいと言って大阪の大学に進んだ
- 俳優を目指すことに父は大反対で、これまで積み上げてきたものはどうなるんだ、お前に芝居ができるわけない、と言った
- 母は父に2人で見守ってみようよと声をかけ、母と姉が背中を押してくれた
- 最後は自分の意思で決め、21歳で上京した
- 今では父が一番の応援者で、出演作の感想は母を通じて、すごいやん、頑張っとるな、野菜いるか、と伝えてくる
- 帰省したときに父とオーディションのせりふを練習し、父は受かるとしたら三成しかないと断言していた
- 大河『豊臣兄弟!』の石田三成役に決まると、父は電話で言うた通りじゃろうがと言った
出典:FAST TOKYO(2024年10月1日・役者を目指したきっかけ)/女性自身(2024年11月30日・高校時代の挫折)/広報さいじょう(2025年4月号・西条市出身の俳優インタビュー)/U-NEXT SQUARE(2025年4月15日・ひとり暮らし)/ウォーカープラス(2025年7月1日・野球少年から俳優へ)/モデルプレス(2025年12月30日・1年ぶりの実家飯)/ViVi(2026年1月10日・家族と地元への思い)/東京すくすく(2026年4月6日・受かるなら三成しかないと父が断言)/Real Sound(2026年5月10日・石田三成役のコメント)/MR8(公式プロフィール)


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